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明けましておめでとうございます。 

2010/01/01 Fri 00:29:55
明けましておめでとうございます。

年が明けました!
HPの「武士の時代」は開設以来11年目に突入しました。
掲示板を休止していますので、こちらでご挨拶をさせていただきます。

HPもブログも全く更新休止状態ですが、訪問していただいた方、ネット上でお世話になっている方、昨年はお世話になり、ありがとうございました。

本年もどうぞよろしくお願いします。

仕事が忙しく、ネット上の活動は出来ていませんが、昨年は「三成伝説」という本の執筆陣の末端に名を連ねることができ、大変貴重な体験をさせていただきました。
本年は少しでもブログに記事を投稿できたらと思っています。

2010年が皆さんにとって幸多い年となりますように!
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管理人共著「三成伝説」出版です! 

2009/09/05 Sat 13:51:13
共著というほどではありませんが、サンライズ出版から「三成伝説」が出版されます。
この本は、オンライン三成会というネット上の石田三成同好会の仲間の共著となっています。
私も「直江兼続」について、1章書かせていただきました。

本の出版の過程にも少しですが参加させていただき、貴重な体験をしました。
書く方は、素人の域を出ませんが、歴史本を見る目は自信があります。
手前味噌ですが、三成本、数あれど、絶対オススメできる内容となっています。
書店で買えない場合は、出版社のHPから直接購入できるみたいですよ。

三成伝説
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テーマ: 歴史

ジャンル: 学問・文化・芸術

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直江兼続が注目される理由 

2009/03/01 Sun 19:31:06
今年のNHK大河ドラマ「天地人」では、直江兼続(なおえかねつぐ)が主役となっています。
武田信玄上杉謙信などのビックネームに比べて、主役としてマイナーな印象を持たれてる方が多いと思います。

事実、兼続は国主、城主の子でもなく、自身が天下を狙ったような人物でもありません。
幼少時代については、様々な伝承があるものの史実として確認できる事実は極めて少ない人物です。

NHK大河ドラマ「天地人」公式HPでは、次のように兼続を評しています。

『上杉景勝の家臣でありながら秀吉や家康らを魅力し、最も恐れられた男』

『「利」を求める戦国時代において、「愛」を信じた兼続の生き様は、弱者を切り捨て、利益追求に邁進する現代人に鮮烈な印象を与えます。』

カリスマであった上杉謙信は、織田信長との正面衝突を控えて、突然、この世を去ります。
上杉家の世継ぎを巡る御館の乱を経て景勝が家督を継ぎますが、上杉家臣団は弱体化し、越後国内にも大きな火種を抱えたままでした。

時に景勝は25歳、兼続は20歳。
戦国乱世を渡っていくには、あまりにも若い二人でした。

やがて、兼続は、景勝によって上杉家の執政(家老)の地位を与えられます。
上杉家では景勝を「御屋形」、兼続を「旦那」と尊称するなど、2頭政治に近いものであったと言われています。

よく誤解されていますが兼続は、秀吉における竹中半兵衛黒田官兵衛のような天才的な軍師ではありません。
もちろん、数多くの戦で上杉軍団の陣頭に立ち、鮮やかな戦功も挙げるのですが、兼続の真価は、むしろ執政としての戦略、領国経営、兼続の生き様にあったと言えるでしょう。

NHK大河ドラマでは、上杉謙信が直接、兼続に薫陶を与える場面が描かれていました。
当時の兼続の身分としては考えられませんが、人間・兼続の生き様をたどると謙信に大きく影響を受けたことは確かです。

それを一言で言うなら「」という言葉。
天に恥じぬ戦(いくさ)であるか否か。
己の欲得で行動しない事のが上杉謙信であり、兼続に引き継がれた「義」であったわけです。

ケネディ大統領が、上杉鷹山(ようざん)を尊敬していた話は有名ですが、その鷹山が師と仰いだのが直江兼続であったと言われています。
利ではなく義に生きた生き様について、今後も紹介していきたいと思います。

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カテゴリ: 直江兼続

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あけましておめでとうございます 

2009/01/01 Thu 00:39:17
皆様、明けましておめでとうございます。

昨年末に開設したてのブログですがよろしくお願いします。

本館の「武士の時代」では、今年で満9周年を迎え、10年目に突入します。
長い間、支えていただきありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

当ブログともどもよろしくお願いいたします。

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徳川将軍家と大奥のブログ

それでは、今年が皆様にとって幸多い一年となりますように!

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小早川隆景 

2008/12/29 Mon 23:54:19
小早川隆景は、戦国武将の中でももっと知られるべき人物だと思います。
今回は小早川隆景について、ご紹介します。

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1 隆景の人物像

小早川隆景は毛利元就の三男として生まれました。
父・元就は堪忍を重ね、類稀な計略・調略の才により、西国の覇者となった武将であり、その実力は謙信信玄にも匹敵する武将でした。

元就には9人の男子がいましたが、父の資質を最も色濃く受け継いだのが隆景であるといわれています。

小早川隆景と聞いて連想されるのは、「三本の矢の教訓」や関ヶ原で東軍勝利の決定的要因を作った秀秋の養父ということで隆景本人を語るものは以外に少ない印象があります。

隆景は長兄・隆元が急死した後、次兄・吉川元春とともに毛利の両川として毛利家を支え、元春が九州の陣中で没すると、隆景一人で隆元の遺児である毛利家当主・輝元を良く補佐し、終生その姿勢を変える事がありませんでした。

信長の下で毛利と対決してきた秀吉は敵であった隆景の人物・実力を非常に高く評価していました。 秀吉政権下では、隆景が後に五大老といわれた重臣として遇されたということは意外と知られていない事実です。

たとえば、文禄4(1595)年の掟書では塗輿の使用が許されるのは、武将では徳川家康前田利家上杉景勝毛利輝元小早川隆景のみでした。
また、この頃、秀吉は東国の法度・置目・公事は家康に、西国は輝元、隆景に申し付けたとされています。

これほど秀吉に親任された隆景でしたが、秀吉に先立ち亡くなったため後世に印象が薄くなったのでしょうか。

秀吉が隆景を厚遇した理由は、本能寺の変の際、秀吉の中国大返しを追撃しないということで毛利を統一したことが挙げられます。
高松城下で講和した時、毛利方は本能寺の変を知らなかったと言われていますが、果たしてどうだったのでしょうか。おそらくは、雑賀衆などから情報は入っていただろうと思うのです。(また、一説には秀吉が毛利側にありのまま伝えたとも)
その上で、毛利の行く末を熟慮して上で秀吉を追撃しないと重い決断を下したのだろうと思います。 隆景がいなければ、もしかしたら毛利はなかったかもしれない。
毛利がなかったとしたら、関ケ原の戦いは、どうなっていたでしょう。幕末の動乱はどうなっていたでしょう。

話は戻りますが、秀吉政権下に組み込まれた毛利は雑賀攻め長宗我部攻め島津攻めなど西国平定に大いに働き、隆景は若い輝元を立て、実質的には毛利の総指揮官として働いています。

秀吉は、再三にわたり、隆景を独立した大名として扱おうとしますが、隆景は固辞し続けたといわれています。しかし、ついには九州平定の功により筑前・筑後二郡・肥後二郡を与えられています。

九州に居城を得たことにより、隆景は朝鮮の役にも高齢を押して出陣します。
朝鮮での戦況は、はじめこそ秀吉軍の優勢であったが戦線が伸びすぎた事、食料の欠乏、朝鮮民衆の蜂起により形勢は逆転して、戦いの続行が不可能な状態に陥いりました。
一説によると、この時、石田三成は徹底抗戦を主張し、隆景がこれに反対するという形で諸将の意見を求め、撤退することに決したといいます。
これは隆景と三成の連携による大芝居という見方もできます。

撤退を主張した隆景は、碧蹄館の戦いで二万の朝鮮軍を引き受けて、これを破り、やっと秀吉軍は撤退することができたのです。

フロイスは、著書「日本史」の中で「小早川殿は日本では、その名を知られ、類稀なる才能によって非常に尊敬される人物である。その知識と努力により毛利家の領する九カ国を良く治めており、この国で長い間、戦乱も謀反もなく数カ国を治めることは珍しいことである。」と隆景に対する賛辞を惜しんでいない。

隆景が没するのは、秀吉が没する前年のことでした。
類稀な智謀を有し、思慮分別が抜群だった隆景があと数年生きていたとしたら、その後の歴史はどう変わったでしょうか。


2 隆景の略歴

出自  毛利元就の三男
父  毛利元就
兄弟  毛利隆元、吉川元春、穂田元清、富田元秋、出羽元倶、小早川秀包、末次元康、天野元政
妻  小早川正平の娘
子  実子なし、養子・・・秀包(毛利元就九男)、秀秋(木下家定次男・秀吉養子)
生没年  天文2(1533)年~慶長2(1597)年
幼名・別名  徳寿丸、又四郎
官途名・叙任  中務大輔、左衛門佐、侍従、参議、権中納言、従三位
  法名  泰雲紹閑
墓所  米山寺(三原市)、京都大徳寺塔頭黄梅院

<小早川隆景年表>

天文2(1533)年  安芸国吉田郡山城で毛利元就三男として生まれる
天文6(1537)年  兄・毛利隆元、大内義隆への人質として山口に送られる
天文9(1540)年  尼子詮久(晴久)、三万の軍勢で安芸吉田に侵攻
天文10(1541)年  小早川興景(竹原家)病死
天文13(1544)年  竹原小早川家の養子となり家督を継ぐ
天文15(1546)年  元就、隆元に家督を譲る
天文16(1547)年 五ヶ竜王山城攻めで初陣を飾る(神辺城攻めという説も)
天文18(1549)年  元就、元春(元就二男)とともに大内義隆に謁見
天文19(1550)年  沼田小早川家(小早川・本家)を相続
天文20(1551)年  高山城を本拠とする
天文21(1552)年  新高山城を修築し本拠とする
天文23(1554)年  陶晴賢の本拠・富田浦を攻める
弘治元(1555)年  厳島の戦いで水軍を率い、毛利軍大勝に貢献する、(陶晴賢自刃)
永禄6(1563)年  兄・毛利隆元急死
永禄9(1566)年  月山冨田城の戦い
永禄11(1568)年  伊予大洲城攻略
元亀2(1571)年  父・元就、安芸吉田郡山城で死去
天正10(1582)年  秀吉と高松城攻めで講和、三原城を本拠とする
天正13(1585)年  秀吉の四国攻めで一翼を担い、功により伊予35万石に封じられる(毛利家の分国として受領)
天正14(1586)年  次兄・吉川元春、九州攻めの陣中で病死
天正15(1587)年  九州攻めの功により筑前一国と筑後二郡、肥前二郡合わせて30万7千3百石を与えられ(異説あり)、居所を名島(福岡市東区)に定める
天正17(1589)年  侍従に任官、羽柴の姓を許され、羽柴侍従と称される
文禄2(1593)年  文禄の役の碧蹄館の戦いで明の大軍を京城の前面で撃破し、講和のきっかけを作る、秀秋(秀吉の甥)の宗家・毛利家への養子を阻むため(異説あり)、秀秋を小早川家の養子として受け入れる、この頃、豊臣家五大老の一人となる
文禄4(1595)年  筑前・筑後の領国を秀秋に譲り、三原城を隠居城とする
慶長2(1597)年  隆景、病死


3 隆景の逸話

EPISODE1

ある時、黒田如水が隆景に質問した。
「私は勘によって物事を判断するため、間違いを起こすことがある。私に比べ、小早川殿の判断には狂いはない。何か秘訣があるのでしょうか。」
隆景はこれに答えて
「おっしゃるほどのことではありません。私は黒田殿ほど鋭くありません。物事を考えに考え抜いたあげく結論を出すしかありません。黒田殿は頭が良いため、素早く決断なさる。そのために情報に誤りがあった場合に判断が狂われることがあるのでしょう。」


EPISODE2

隆景は、家臣に対して次のように諭したという。
「私に意見されて、直ちに請合う者は、その意見を保つ者は稀である。私の意見を良く聞き、自分で考え、合点がいかないことは一問答も二問答もしてみて、もっともと合点をした者こそ意見を用いる者である。皆にもそうなって欲しい。」


EPISODE3

右筆に火急の用件を書かせる時に
「急用である。静かに書け。」と諭したという。


EPISODE4

如水の子である長政も「分別」について隆景に教えを乞うた。
「分別に肝要であるのは仁愛です。仁愛により分別すれば万が一、理に当たらないことがあっても、そう大きな誤りにはならない。逆に才智が巧みでも仁愛のない分別は正しいとは言えないでしょう。」と答えたという。


EPISODE5

隆景の人生観を語る言葉として次のような深い言葉が残されている。
「一生は夢の間なれば」


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