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小早川隆景 

2008/12/29 Mon 23:54:19
小早川隆景は、戦国武将の中でももっと知られるべき人物だと思います。
今回は小早川隆景について、ご紹介します。

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1 隆景の人物像

小早川隆景は毛利元就の三男として生まれました。
父・元就は堪忍を重ね、類稀な計略・調略の才により、西国の覇者となった武将であり、その実力は謙信信玄にも匹敵する武将でした。

元就には9人の男子がいましたが、父の資質を最も色濃く受け継いだのが隆景であるといわれています。

小早川隆景と聞いて連想されるのは、「三本の矢の教訓」や関ヶ原で東軍勝利の決定的要因を作った秀秋の養父ということで隆景本人を語るものは以外に少ない印象があります。

隆景は長兄・隆元が急死した後、次兄・吉川元春とともに毛利の両川として毛利家を支え、元春が九州の陣中で没すると、隆景一人で隆元の遺児である毛利家当主・輝元を良く補佐し、終生その姿勢を変える事がありませんでした。

信長の下で毛利と対決してきた秀吉は敵であった隆景の人物・実力を非常に高く評価していました。 秀吉政権下では、隆景が後に五大老といわれた重臣として遇されたということは意外と知られていない事実です。

たとえば、文禄4(1595)年の掟書では塗輿の使用が許されるのは、武将では徳川家康前田利家上杉景勝毛利輝元小早川隆景のみでした。
また、この頃、秀吉は東国の法度・置目・公事は家康に、西国は輝元、隆景に申し付けたとされています。

これほど秀吉に親任された隆景でしたが、秀吉に先立ち亡くなったため後世に印象が薄くなったのでしょうか。

秀吉が隆景を厚遇した理由は、本能寺の変の際、秀吉の中国大返しを追撃しないということで毛利を統一したことが挙げられます。
高松城下で講和した時、毛利方は本能寺の変を知らなかったと言われていますが、果たしてどうだったのでしょうか。おそらくは、雑賀衆などから情報は入っていただろうと思うのです。(また、一説には秀吉が毛利側にありのまま伝えたとも)
その上で、毛利の行く末を熟慮して上で秀吉を追撃しないと重い決断を下したのだろうと思います。 隆景がいなければ、もしかしたら毛利はなかったかもしれない。
毛利がなかったとしたら、関ケ原の戦いは、どうなっていたでしょう。幕末の動乱はどうなっていたでしょう。

話は戻りますが、秀吉政権下に組み込まれた毛利は雑賀攻め長宗我部攻め島津攻めなど西国平定に大いに働き、隆景は若い輝元を立て、実質的には毛利の総指揮官として働いています。

秀吉は、再三にわたり、隆景を独立した大名として扱おうとしますが、隆景は固辞し続けたといわれています。しかし、ついには九州平定の功により筑前・筑後二郡・肥後二郡を与えられています。

九州に居城を得たことにより、隆景は朝鮮の役にも高齢を押して出陣します。
朝鮮での戦況は、はじめこそ秀吉軍の優勢であったが戦線が伸びすぎた事、食料の欠乏、朝鮮民衆の蜂起により形勢は逆転して、戦いの続行が不可能な状態に陥いりました。
一説によると、この時、石田三成は徹底抗戦を主張し、隆景がこれに反対するという形で諸将の意見を求め、撤退することに決したといいます。
これは隆景と三成の連携による大芝居という見方もできます。

撤退を主張した隆景は、碧蹄館の戦いで二万の朝鮮軍を引き受けて、これを破り、やっと秀吉軍は撤退することができたのです。

フロイスは、著書「日本史」の中で「小早川殿は日本では、その名を知られ、類稀なる才能によって非常に尊敬される人物である。その知識と努力により毛利家の領する九カ国を良く治めており、この国で長い間、戦乱も謀反もなく数カ国を治めることは珍しいことである。」と隆景に対する賛辞を惜しんでいない。

隆景が没するのは、秀吉が没する前年のことでした。
類稀な智謀を有し、思慮分別が抜群だった隆景があと数年生きていたとしたら、その後の歴史はどう変わったでしょうか。


2 隆景の略歴

出自  毛利元就の三男
父  毛利元就
兄弟  毛利隆元、吉川元春、穂田元清、富田元秋、出羽元倶、小早川秀包、末次元康、天野元政
妻  小早川正平の娘
子  実子なし、養子・・・秀包(毛利元就九男)、秀秋(木下家定次男・秀吉養子)
生没年  天文2(1533)年~慶長2(1597)年
幼名・別名  徳寿丸、又四郎
官途名・叙任  中務大輔、左衛門佐、侍従、参議、権中納言、従三位
  法名  泰雲紹閑
墓所  米山寺(三原市)、京都大徳寺塔頭黄梅院

<小早川隆景年表>

天文2(1533)年  安芸国吉田郡山城で毛利元就三男として生まれる
天文6(1537)年  兄・毛利隆元、大内義隆への人質として山口に送られる
天文9(1540)年  尼子詮久(晴久)、三万の軍勢で安芸吉田に侵攻
天文10(1541)年  小早川興景(竹原家)病死
天文13(1544)年  竹原小早川家の養子となり家督を継ぐ
天文15(1546)年  元就、隆元に家督を譲る
天文16(1547)年 五ヶ竜王山城攻めで初陣を飾る(神辺城攻めという説も)
天文18(1549)年  元就、元春(元就二男)とともに大内義隆に謁見
天文19(1550)年  沼田小早川家(小早川・本家)を相続
天文20(1551)年  高山城を本拠とする
天文21(1552)年  新高山城を修築し本拠とする
天文23(1554)年  陶晴賢の本拠・富田浦を攻める
弘治元(1555)年  厳島の戦いで水軍を率い、毛利軍大勝に貢献する、(陶晴賢自刃)
永禄6(1563)年  兄・毛利隆元急死
永禄9(1566)年  月山冨田城の戦い
永禄11(1568)年  伊予大洲城攻略
元亀2(1571)年  父・元就、安芸吉田郡山城で死去
天正10(1582)年  秀吉と高松城攻めで講和、三原城を本拠とする
天正13(1585)年  秀吉の四国攻めで一翼を担い、功により伊予35万石に封じられる(毛利家の分国として受領)
天正14(1586)年  次兄・吉川元春、九州攻めの陣中で病死
天正15(1587)年  九州攻めの功により筑前一国と筑後二郡、肥前二郡合わせて30万7千3百石を与えられ(異説あり)、居所を名島(福岡市東区)に定める
天正17(1589)年  侍従に任官、羽柴の姓を許され、羽柴侍従と称される
文禄2(1593)年  文禄の役の碧蹄館の戦いで明の大軍を京城の前面で撃破し、講和のきっかけを作る、秀秋(秀吉の甥)の宗家・毛利家への養子を阻むため(異説あり)、秀秋を小早川家の養子として受け入れる、この頃、豊臣家五大老の一人となる
文禄4(1595)年  筑前・筑後の領国を秀秋に譲り、三原城を隠居城とする
慶長2(1597)年  隆景、病死


3 隆景の逸話

EPISODE1

ある時、黒田如水が隆景に質問した。
「私は勘によって物事を判断するため、間違いを起こすことがある。私に比べ、小早川殿の判断には狂いはない。何か秘訣があるのでしょうか。」
隆景はこれに答えて
「おっしゃるほどのことではありません。私は黒田殿ほど鋭くありません。物事を考えに考え抜いたあげく結論を出すしかありません。黒田殿は頭が良いため、素早く決断なさる。そのために情報に誤りがあった場合に判断が狂われることがあるのでしょう。」


EPISODE2

隆景は、家臣に対して次のように諭したという。
「私に意見されて、直ちに請合う者は、その意見を保つ者は稀である。私の意見を良く聞き、自分で考え、合点がいかないことは一問答も二問答もしてみて、もっともと合点をした者こそ意見を用いる者である。皆にもそうなって欲しい。」


EPISODE3

右筆に火急の用件を書かせる時に
「急用である。静かに書け。」と諭したという。


EPISODE4

如水の子である長政も「分別」について隆景に教えを乞うた。
「分別に肝要であるのは仁愛です。仁愛により分別すれば万が一、理に当たらないことがあっても、そう大きな誤りにはならない。逆に才智が巧みでも仁愛のない分別は正しいとは言えないでしょう。」と答えたという。


EPISODE5

隆景の人生観を語る言葉として次のような深い言葉が残されている。
「一生は夢の間なれば」


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大谷吉継 

2008/12/27 Sat 22:12:25
今回は、石田三成との友情に殉じた武将として人気のある大谷吉継についてご紹介します。

吉継は、大友宗麟の家臣・大谷盛治の子という説がありますが定かではないようです。幼名は紀之助。

秀吉子飼いの武将として天正11(1583)年賤ケ岳の戦で七本槍に次ぐ働きをしますが、主に検地奉行や兵站奉行として用いられて、秀吉をして「百万の軍の軍配をあずけてみたい」とその智謀、人柄を愛されたと言います。

天正13(1585)年、従五位下刑部少輔に叙任され、同17年越前敦賀五万石の城主となりました。
文禄元(1592)年朝鮮出兵では石田三成増田長盛とともに船奉行、現地督戦奉行などを勤めました。
吉継が石田三成と少年の頃よりの固い友情で結ばれていたことは周知のことですが、一方では親家康の立場を明確にしており、秀吉の死後、家康が四大老・五奉行と対立した際も家康側に与しています。

家康の上杉征伐の際に三成と家康の仲を調停しようと征伐軍に合流する途中、美濃の垂井で佐和山の三成に使者を送り、三成の子(重家)を上杉征伐に従軍させようとしますが、逆に三成から佐和山に来るよう求められて家康追討の計画を明かされます。

吉継は三成に対し言を尽くして、その無謀を説き、自分が病身(癩病がかなり進行していた)を押し、家康に従軍するのは重家の後見をするためであるとまで言って説得しましたが、物別れに終り、一旦は垂井に戻りました。
垂井に戻った後も3日間、使者を遣わして、三成に説得を繰り返しましたが、三成の決意が変わらなかったために意を決して三成と運命を共にする覚悟を固めました。

吉継は、一時、他の将と共に小松で前田利長を牽制していましたが、9月3日に関ヶ原に到着して、小早川秀秋が陣取っていた松尾山の北の藤川台に陣しました。
開戦後、藤堂高虎京極高知寺沢広高隊と激戦を繰り広げ、小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷隊に殺到した後も、そのことを予想していた吉継は備えており、一時は逆に小早川隊を押し戻したほどであったと言われています。

しかし、小早川隊の裏切りに備えたはずの脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保の四隊までもが寝返り、大谷隊は三方を敵に囲まれる形となり、ついに総崩れとなりました。
吉継は死に臨み「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と遺言し、家臣に首を打たせて、首を敵に渡さぬよう土中に埋めさせたと言われています。

秀秋は、二年後、狂乱の末に死亡、脇坂ら四将も家康から非常に冷たく扱われたのは吉継の思いがさせたことだったのでしょうか。

カテゴリ: 人物

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明智光秀 

2008/12/14 Sun 23:16:09
明智光秀と聞いて、どのようなイメージを持つでしょうか?
今回は光秀についてご紹介します。


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1 光秀の人物像

明智光秀といえば「主殺し」「三日天下」など、ありがたくない代名詞がつくのが一般的のような気がします。
しかしながら、歴史を大きく転回させたキーマンであることは事実です。
同時に光秀ほど謎に満ち、歴史的興味をかりたててくれる人物も、そう多くはいないのではないでしょうか。

また、戦国期の武将の中で光秀が特異な存在で一人浮いて見えてしまうのはどうしてでしょうか。
私の感覚ですが、信長・秀吉・家康に代表される戦国武将は歴史上の勝者敗者を問わず、現実世界からかけ離れた人物に感じてしまうのですが、光秀については、何故かその栄光も苦悩も挫折も現代に通じるドキュメンタリとしてとらえることができるような気がします。

それは、早乙女貢氏が指摘するように光秀が「勤勉で、学問好きで、まじめに生きようとしている。むろん武士として名誉欲も、政治的野心もあるが、歌人であり、ものの哀れを知る男だ。」(明智光秀 物語と史蹟をたずねて 早乙女貢著より抜粋)という現代人的感覚に近い人間だからだと思います。

逆に言えば戦国期においては、生きていけない人間ということになってしまうかもしれませんが、明智一族の結束の強さに光秀の人間臭さを感じます。

光秀の才能や人間性が、どのようにしてできたのか興味がありますが、残念ながら光秀が歴史の表舞台に登場してくるのは朝倉義景に仕官した時からでその前半生を語る信憑性のある資料はほとんどなく謎に包まれており今後の研究を待たなければなりません。


2 光秀の略歴

出自  清和源氏で土岐下野守頼兼の末裔
父  明智光綱(光綱の弟、兵庫助光安が美濃明智城城主)
※ 斉藤道三の妻 小見の方は光綱の妹でその子が織田信長の妻 濃姫
兄弟  信教康秀の2人の弟がいる
妻  妻木勘解由左衛門範熙の女
子  男子・・・十五郎、子(名不明)、女子・・・明智秀満の妻、織田信澄の妻、細川忠興の妻
生没年  享禄元(1528)年~天正10(1582)年
明智姓  美濃国明智荘(岐阜県可児市)に由来
墓所  西教寺、高野山奥ノ院
※ 出自、家族関係、生年、明智姓の由来には諸説あり


永禄末~元亀元年  足利義昭の家臣という身分のまま、信長にも仕える
元亀2(1571)年  近江志賀郡の地を与えられ坂本城を居城とする
天正3(1575)年  丹波攻略の命が下る、越前一向一揆討伐、竹田城攻め、黒井城包囲
天正4(1576)年  八上城主、波多野秀治の裏切りにより丹波から一時撤兵、石山本願寺攻め
天正5(1577)年  雑賀攻め、松永久秀攻め、亀山城・籾井城攻め
天正6(1578)年  八上城攻め、本願寺攻め、園部城攻め、神吉城攻め、荒木村重攻め、三田城攻め
天正7(1579)年  氷上城攻め、八上城攻め、丹後攻め、黒井城攻め 
天正8(1580)年  信長より「粉骨のたびたびの功名、比類なき」の感状とともに丹波一国を与えられ亀山城主となる
天正10(1582)年  家康饗応役を免じられ、中国地方出陣を命じられる
5月26日 坂本城から亀山城に入る
5月27日 愛宕山参詣、籤を2、3度引く
5月28日 愛宕威徳院で百韻連歌に参加
6月 1日 一万三千の兵を率い亀山城を出発
6月 2日 未明、本能寺を奇襲し信長を討つ、二条御所で信忠を討つ、近江に向け進軍するも山岡景隆が抵抗し瀬田唐橋を落としたため、坂本城に引き返す
6月 3日 瀬田唐橋修復を待つ
6月 4日 3日に同じ
6月 5日 安土城入城、佐和山城・長浜城を攻め両城占拠
6月 7日 勅使 吉田兼和と安土城で会見し、誠仁親王からの進物受領
6月 8日 坂本城帰城
6月 9日 京に入り、支配体制を整える、細川父子に書状送るも黙殺される、下鳥羽に出陣、南殿寺に本陣を置く、筒井順慶を洞ケ峠で待つが順慶、現れず
6月10日 筒井順慶に再度、出陣要請するも実らず。夜、秀吉の動向を知る
6月11日 再び下鳥羽に本陣を構え、淀城・勝龍寺城の防備を固める
6月12日 山崎で秀吉軍と交戦
6月13日 光秀軍一万六千、秀吉軍三万七千が戦闘。光秀敗れ勝龍寺に撤退。深夜に近江方面に逃走する。伏見の小栗栖で落ち武者狩りに遭い絶命
               

3 光秀を本能寺に駆り立てたもの

なぜ、光秀は信長を討ったのでしょうか?

戦国史上最大の謎といわれ、諸説ありますが後世の私たちが光秀の内心を正確に、のぞき見ることは出来ないような気がします。
ただ言える事は、光秀と信長は互いに肌が合わない人間性を持っていたこと、動機についても一つではなく、いろんな要因が積もり積もって光秀をして信長を討たせたのだろうということです。

以下に光秀が本能寺で信長を討った理由についての代表的な説を簡単に紹介します。
ただし、私なりの解釈が介在していることをお断りしておきます。


イ 野望説
光秀も、信長ら他の戦国武将となんら異なることはなく、チャンスがあれば天下を手中にしたいと考えていたのではないか。
しかも、光秀は年齢を重ねても青雲の志を忘れないタイプの人間に思えます。その志と信長の間で常日頃から葛藤していて、そこに千載一遇のチャンスが訪れたとかんがえたのではないか。
 説得力は十分ありますが、直接の動機としては弱い感じがします。

ロ 怨恨説
信長に光秀の立場を考慮しない言動がたびたびあったため、溜まりに溜まった恨みが動機となったとする説です。
例えば甲州攻めの際の折檻、八上城攻めの際に人質となった光秀の母を見殺しにされたこと、家康饗応役に対する叱責などが具体的原因として数えられます。
通説に近い説ですが、光秀のスケールを小さく見せる作為を多少感じます。

ハ 自己防衛説
信長は晩年になればなるほど、冷酷、残忍、ヒステリックな性格が顕著になっており、それが敵はおろか、家臣にも向けられた傾向があります。
織田家股肱の臣である林佐渡守や佐久間信盛のように、いつ、難癖をつけられ追放されるかわからない。そんな不安定な地位に甘んじるくらいなら大きな賭けに出るほうが良いと光秀が考えたとする説です。
有力な説です。

ニ 武士の面目説
長宗我部氏との折衝役を行っていた光秀は、当然、自分が四国攻めの総大将に指名されると思っていましたが、信長は長宗我部氏との約束事を反故にしたあげく、所領の丹波と近江を没収し、かわりに毛利領である出雲と石見を与えるという。更にライバルである秀吉の指揮下で中国攻めに参加せよとの命令が下されました。
今までの自分の苦労が無になる思いと何にもまして自分を支えてきてくれた一族や家臣に面目が立たない。面目を守るためには何を為すべきか・・・。
時期的にもタイムリーであり直接の動機としては十分説得力がある説です。

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豊臣秀長 

2008/12/14 Sun 22:15:08
豊臣秀吉の弟・豊臣秀長は、非常に魅力ある武将の一人ですので、ご紹介したいと思います。

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1 秀長の略歴

天文8年(1539)生~天正19年(1591)1月22日没
秀吉の異父弟とする説と実弟とする説があります。
通称 小一郎。

20歳の時、秀吉の誘いに応じ尾張中村での農民生活を捨て、秀吉に仕えます。
秀長は、秀吉がまだ足軽組頭であった時から秀吉の参謀として、代理として、また弟として影で秀吉を支え続けます。
墨俣の一夜城築城美濃攻め但馬平定山崎の合戦中国攻め長宗我部討伐島津討伐等数々、秀吉の出世の足がかりとなった戦には常に秀長が従っていました。

後年、大和郡山城を与えられ、従二位権大納言に叙せられてからは大和大納言と称され、その温和な人柄から多くの武将に慕われたと言います。


2 秀長について

秀長は天正19年(1591)に病死しました。秀吉に先立つこと7年あまり。
秀長がもう少し長生きしていれば・・・と考えた時、その後の歴史は大きく変わった可能性があります。

内々の儀は宗易、公儀のことは宰相(秀長のこと)」と言われたように、秀長の豊臣政権下における位置は非常に重いものがありました。
秀吉にしても公私を問わず、自分の分身として頼れるのは秀長であったはずです。

秀吉の弟でもあり、武将としての力量も抜群で、しかも、そのおだやかな性格から豊臣政権のまとめ役でした。また、常に秀吉を立て決して弟の分を超えることはないが、秀吉に対して遠慮なく諫言できるのは秀長だけであったとも言われています。

秀長が死の床についた時、見舞いに来た前野長康
わたしも病気を得て、すっかり気が弱くなってしまった。志も達することもできずに病気となり、兄者に諫言することもままならず空しく伏せっている。我が命のある限り兄者、天下のことに尽くしたく毎夜、夢にうなされている。ご憐察ください。」と言ったというが、本人も無念だったと思います。

また、秀長は「いたずらに外国と争い、人馬や兵糧を費やすことはおろかなことである。損失ばかり多く、何も得るものはない。和議を講じて交易を行うことが富国の一番の道である。」として病床にありながら朝鮮と戦を行うことに反対していたと言います。
朝鮮出兵が決定されたのは秀長の死から2ヵ月後のことでした。

秀長の死を知った時、秀吉は片腕を失った、と号泣したといわれています。
秀長を失った秀吉は、人が変わったように利休切腹朝鮮征伐秀次抹殺と暗い面ばかりが目立つようになります。

秀長が生きていれば、少なくとも利休、秀次のことはなく、朝鮮とのことも違った形になったのではないか。そうなれば、加藤清正らと小西行長石田三成の対立もそれほど表面化しなかったのではないか、そう考えるのは行き過ぎだろうか。
秀吉没後に秀長が健在であれば、徳川家に征夷大将軍が下されることはなかったのではないでしょうか。ちなみに秀長は家康の3歳年長であるに過ぎません。

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細川忠興 

2008/12/13 Sat 23:13:41
今回は、細川ガラシャ夫人の夫としても知られる細川忠興についてご紹介します。

忠興は、長岡(細川)藤孝(幽斎)の長子として生まれました。
織田信長に仕え、父と共に明智光秀軍に属し、松永久秀攻めでは信長から感状を下されています。
また、信長の嫡子・信忠から一字を与えられて忠興と名乗り、信長の取り持ちにより光秀の三女・お玉(洗礼名・ガラシャ)を娶っています。

本能寺の変では、父と共に明智光秀を見限り、秀吉に与しました。
忠興は、この時から家督を譲られ、丹後12万石宮津城主となり、秀吉と家康が戦った小牧長久手の戦いでは、織田信雄を破り、羽柴の姓を許されます。
その後、九州・小田原攻めなどに参戦し、従三位参議、越中守に任じらます。

秀吉の死後、家康に与して上杉攻めでは福島正則加藤嘉明とともに先鋒として出陣して、関ヶ原本戦でも石田三成と激闘を演じました。更に父・幽斎が篭城する田辺城に取って返し、父を救っています。
この活躍により豊前、豊後二郡の39万9千石を与えられ、家督を忠利に譲った後、寛永9(1632)年加藤忠広改易に伴い、肥後熊本54万石に移封となりました。

忠興は天寿を全うし、正保2(1645)年、83歳の長寿を得て没しました。
父譲りの政治嗅覚に優れ、隠居後も情報の収集・分析をよく行い、幕府の外様取潰し政策の中、付け入る隙を与えなかったと言います。
また、若年から激しい気性を持ち合わせ、戦場で活躍した反面、有職故実、和歌、絵画、能など多方面にも優れた才能があって、特に茶道は利休七哲の一人として三斎流を興しており、当代きっての文化人でもありました。

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