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小早川隆景 

2008/12/29 Mon 23:54:19
小早川隆景は、戦国武将の中でももっと知られるべき人物だと思います。
今回は小早川隆景について、ご紹介します。

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1 隆景の人物像

小早川隆景は毛利元就の三男として生まれました。
父・元就は堪忍を重ね、類稀な計略・調略の才により、西国の覇者となった武将であり、その実力は謙信信玄にも匹敵する武将でした。

元就には9人の男子がいましたが、父の資質を最も色濃く受け継いだのが隆景であるといわれています。

小早川隆景と聞いて連想されるのは、「三本の矢の教訓」や関ヶ原で東軍勝利の決定的要因を作った秀秋の養父ということで隆景本人を語るものは以外に少ない印象があります。

隆景は長兄・隆元が急死した後、次兄・吉川元春とともに毛利の両川として毛利家を支え、元春が九州の陣中で没すると、隆景一人で隆元の遺児である毛利家当主・輝元を良く補佐し、終生その姿勢を変える事がありませんでした。

信長の下で毛利と対決してきた秀吉は敵であった隆景の人物・実力を非常に高く評価していました。 秀吉政権下では、隆景が後に五大老といわれた重臣として遇されたということは意外と知られていない事実です。

たとえば、文禄4(1595)年の掟書では塗輿の使用が許されるのは、武将では徳川家康前田利家上杉景勝毛利輝元小早川隆景のみでした。
また、この頃、秀吉は東国の法度・置目・公事は家康に、西国は輝元、隆景に申し付けたとされています。

これほど秀吉に親任された隆景でしたが、秀吉に先立ち亡くなったため後世に印象が薄くなったのでしょうか。

秀吉が隆景を厚遇した理由は、本能寺の変の際、秀吉の中国大返しを追撃しないということで毛利を統一したことが挙げられます。
高松城下で講和した時、毛利方は本能寺の変を知らなかったと言われていますが、果たしてどうだったのでしょうか。おそらくは、雑賀衆などから情報は入っていただろうと思うのです。(また、一説には秀吉が毛利側にありのまま伝えたとも)
その上で、毛利の行く末を熟慮して上で秀吉を追撃しないと重い決断を下したのだろうと思います。 隆景がいなければ、もしかしたら毛利はなかったかもしれない。
毛利がなかったとしたら、関ケ原の戦いは、どうなっていたでしょう。幕末の動乱はどうなっていたでしょう。

話は戻りますが、秀吉政権下に組み込まれた毛利は雑賀攻め長宗我部攻め島津攻めなど西国平定に大いに働き、隆景は若い輝元を立て、実質的には毛利の総指揮官として働いています。

秀吉は、再三にわたり、隆景を独立した大名として扱おうとしますが、隆景は固辞し続けたといわれています。しかし、ついには九州平定の功により筑前・筑後二郡・肥後二郡を与えられています。

九州に居城を得たことにより、隆景は朝鮮の役にも高齢を押して出陣します。
朝鮮での戦況は、はじめこそ秀吉軍の優勢であったが戦線が伸びすぎた事、食料の欠乏、朝鮮民衆の蜂起により形勢は逆転して、戦いの続行が不可能な状態に陥いりました。
一説によると、この時、石田三成は徹底抗戦を主張し、隆景がこれに反対するという形で諸将の意見を求め、撤退することに決したといいます。
これは隆景と三成の連携による大芝居という見方もできます。

撤退を主張した隆景は、碧蹄館の戦いで二万の朝鮮軍を引き受けて、これを破り、やっと秀吉軍は撤退することができたのです。

フロイスは、著書「日本史」の中で「小早川殿は日本では、その名を知られ、類稀なる才能によって非常に尊敬される人物である。その知識と努力により毛利家の領する九カ国を良く治めており、この国で長い間、戦乱も謀反もなく数カ国を治めることは珍しいことである。」と隆景に対する賛辞を惜しんでいない。

隆景が没するのは、秀吉が没する前年のことでした。
類稀な智謀を有し、思慮分別が抜群だった隆景があと数年生きていたとしたら、その後の歴史はどう変わったでしょうか。


2 隆景の略歴

出自  毛利元就の三男
父  毛利元就
兄弟  毛利隆元、吉川元春、穂田元清、富田元秋、出羽元倶、小早川秀包、末次元康、天野元政
妻  小早川正平の娘
子  実子なし、養子・・・秀包(毛利元就九男)、秀秋(木下家定次男・秀吉養子)
生没年  天文2(1533)年~慶長2(1597)年
幼名・別名  徳寿丸、又四郎
官途名・叙任  中務大輔、左衛門佐、侍従、参議、権中納言、従三位
  法名  泰雲紹閑
墓所  米山寺(三原市)、京都大徳寺塔頭黄梅院

<小早川隆景年表>

天文2(1533)年  安芸国吉田郡山城で毛利元就三男として生まれる
天文6(1537)年  兄・毛利隆元、大内義隆への人質として山口に送られる
天文9(1540)年  尼子詮久(晴久)、三万の軍勢で安芸吉田に侵攻
天文10(1541)年  小早川興景(竹原家)病死
天文13(1544)年  竹原小早川家の養子となり家督を継ぐ
天文15(1546)年  元就、隆元に家督を譲る
天文16(1547)年 五ヶ竜王山城攻めで初陣を飾る(神辺城攻めという説も)
天文18(1549)年  元就、元春(元就二男)とともに大内義隆に謁見
天文19(1550)年  沼田小早川家(小早川・本家)を相続
天文20(1551)年  高山城を本拠とする
天文21(1552)年  新高山城を修築し本拠とする
天文23(1554)年  陶晴賢の本拠・富田浦を攻める
弘治元(1555)年  厳島の戦いで水軍を率い、毛利軍大勝に貢献する、(陶晴賢自刃)
永禄6(1563)年  兄・毛利隆元急死
永禄9(1566)年  月山冨田城の戦い
永禄11(1568)年  伊予大洲城攻略
元亀2(1571)年  父・元就、安芸吉田郡山城で死去
天正10(1582)年  秀吉と高松城攻めで講和、三原城を本拠とする
天正13(1585)年  秀吉の四国攻めで一翼を担い、功により伊予35万石に封じられる(毛利家の分国として受領)
天正14(1586)年  次兄・吉川元春、九州攻めの陣中で病死
天正15(1587)年  九州攻めの功により筑前一国と筑後二郡、肥前二郡合わせて30万7千3百石を与えられ(異説あり)、居所を名島(福岡市東区)に定める
天正17(1589)年  侍従に任官、羽柴の姓を許され、羽柴侍従と称される
文禄2(1593)年  文禄の役の碧蹄館の戦いで明の大軍を京城の前面で撃破し、講和のきっかけを作る、秀秋(秀吉の甥)の宗家・毛利家への養子を阻むため(異説あり)、秀秋を小早川家の養子として受け入れる、この頃、豊臣家五大老の一人となる
文禄4(1595)年  筑前・筑後の領国を秀秋に譲り、三原城を隠居城とする
慶長2(1597)年  隆景、病死


3 隆景の逸話

EPISODE1

ある時、黒田如水が隆景に質問した。
「私は勘によって物事を判断するため、間違いを起こすことがある。私に比べ、小早川殿の判断には狂いはない。何か秘訣があるのでしょうか。」
隆景はこれに答えて
「おっしゃるほどのことではありません。私は黒田殿ほど鋭くありません。物事を考えに考え抜いたあげく結論を出すしかありません。黒田殿は頭が良いため、素早く決断なさる。そのために情報に誤りがあった場合に判断が狂われることがあるのでしょう。」


EPISODE2

隆景は、家臣に対して次のように諭したという。
「私に意見されて、直ちに請合う者は、その意見を保つ者は稀である。私の意見を良く聞き、自分で考え、合点がいかないことは一問答も二問答もしてみて、もっともと合点をした者こそ意見を用いる者である。皆にもそうなって欲しい。」


EPISODE3

右筆に火急の用件を書かせる時に
「急用である。静かに書け。」と諭したという。


EPISODE4

如水の子である長政も「分別」について隆景に教えを乞うた。
「分別に肝要であるのは仁愛です。仁愛により分別すれば万が一、理に当たらないことがあっても、そう大きな誤りにはならない。逆に才智が巧みでも仁愛のない分別は正しいとは言えないでしょう。」と答えたという。


EPISODE5

隆景の人生観を語る言葉として次のような深い言葉が残されている。
「一生は夢の間なれば」


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カテゴリ: 人物

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氏と姓と苗字(名字) 

2008/12/29 Mon 22:18:14
今回は、氏と姓と苗字(名字)について考えてみます。

明治以降は氏も姓も苗字(名字)もほぼ同じ意味となり、そのことの違いについてこだわる意味はほとんどありません。
しかしながら明治以前の歴史を見る場合には、その違いを知っていた方が多少はいいかもしれません。


というのは、源・平・藤原・橘・在原・阿部・賀茂・物部などの大きな血族のことをいい、本姓ともいいます。

は、天皇から賜る家格や職掌を称するもので真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置などをいいます。
姓は、従来は血族単位に与えられたものと考えられていましたが、本来は個人に対して与えられたもののようです。

苗字は、地名や役職から名乗られた家を称するもので、徳川や足利などがあたります。姓は、公的なものであり苗字は私称であるわけです。
現代は皇族以外は皆、氏を持つわけですがそのほとんどは苗字であるといわれており、その8割が地名に由来すると推定されているようです。

大きな血族である氏も時代が下がるにつれて、身分も違えば、住むところも違ってくるところから更に小さな単位である苗字が必要となってきたわけです。
源氏(清和源氏)という氏からやがて足利、新田、武田、土岐・・・と枝分かれしていくのが一つの例です。

徳川家康の正式な名乗りは徳川次郎三郎源朝臣家康(とくがわ・じろうさぶろう・みなもと・の・あそん・いえやす)です。
この場合、徳川は苗字、次郎三郎は通称、源は氏、朝臣は姓というわけです。
また、氏のあとには「の」を入れて名乗るのが慣例となっており、豊臣秀吉の豊臣は源と同列の氏(本姓)ですから「とよとみ・の・ひでよし」と呼ぶのが正式だと思われます。

今回はこの辺で。

カテゴリ: 歴史用語

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関ヶ原の戦いの開戦理由 

2008/12/28 Sun 23:21:06
関ヶ原の戦いの開戦理由についてのお話です。

一言で言ってしまうと天下人だった豊臣秀吉が亡くなった後の主導権争いであるといえます。
秀吉も織田信長が亡くなった後、明智光秀柴田勝家との主導権争いに勝って、天下人の地位を築きました。当時、256万石の所領を持ち最大の実力者であった徳川家康が次は自分が天下を取る番だと考えたのも無理がないのです。

このように、家康が独断専行することが予想されたため、生前、秀吉は、いわゆる一般に五大老五奉行といわれる集団指導体制を敷いたのですが、不幸なことに家康に唯一対抗できる前田利家が秀吉の死後、半年余りで亡くなってしまいました。

秀吉が亡くなった当時の五大老の状況を見てみましょう。
徳川家康(55歳) 内大臣 256万石
前田利家(60歳) 大納言 83万石
宇喜多秀家(25歳)権中納言 57万石
毛利輝元(45歳) 権中納言 120万石
上杉景勝(42歳) 参議 120万石

 * 官職は既に辞している場合も含む、年齢には異説あり


家康が秀吉の定めた法度を破って、伊達政宗蜂須賀家政などと無断で婚姻政策を進めた時に利家が烈火のごとく怒り、他の3大老も利家に同調しました。
利家亡き後も3大老の石高合計は家康のそれを凌駕しており、更に前田利長が加わったとしたら家康を圧倒することができそうです。

ところが、事情は単純ではありません。家康以外の3大老は朝鮮の陣により国力が疲弊しているうえに、それぞれが深刻な事情を抱えていました。

秀家は重臣同士の争いや宗教問題などで多くの重臣、一門衆が秀家の下を去っており家中がばらばら、輝元もまた毛利の柱石・小早川隆景を2年前に失って家中を一本にすることができていない状態、景勝に至っては会津に国替えとなって1年と経っておらず、足元固めも未了の状態でした。

もはや家康の独断専行を表立って抑える者がいなくなったのです。当然、そんな家康に反感を持つ者も多くいたのですが、それをなんとか、まとめて家康に戦いを挑んだのが秀吉の信任厚く、才智抜群であった石田三成(38歳) 侍従 19万石 なのです。

カテゴリ: 合戦

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守とは? 

2008/12/28 Sun 22:18:59
家に家系図らしい物があって それに丹後守だとか豊後守、備後守など守が付いてます その守ってどういう意味なんですか?という質問をいただいたことがあります。


以下、私なりの回答です。

「~守」ですが、これは奈良・平安時代の基本法である律令で定められた地方官の名称です。いわゆる国司ってやつです。

地方官には、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(もく)の四等官がありました。守は、一番上ですから国の長官といって良いと思います。
中下級貴族が都から、赴任していました。

ところが平安末期になると、律令制も乱れて国司に任命されても現地に赴任しない者も多くなり、現地に行く国司を特に受領と呼ぶようになります。これは前任の国司から事務引継書である解由状(げゆじょう)を受けるところからそう呼ばれるようになったのです。

鎌倉時代には、幕府より守護・地頭が地方に置かれたため、国司の力も一段と弱まり、やがて有名無実化しますが官職としては、残ります。

室町後期、世が乱れてくるとその官職も、私称するものが多くなり、あたかも名前のように称するようになります。

江戸時代には、おおむね三千石以上の武士であれば、幕府を通じて朝廷から官位をもらっていました。あくまでも名誉職ですから、職務は全く伴わないもので東北の大名が九州の守名乗りをすることも出来たし、途中で変えることも可能でした。
播磨守などは、一時期に10人以上存在したといいます。
ただし、一部の守名乗りには制限がありました。(武蔵守は将軍家に遠慮して使用禁止など)また、同姓で同じ守名乗りは、出来ませんでした。

家系図に残る守名は正式なものである可能性もありますが、私称である場合も多いものと思われます。

カテゴリ: 歴史用語

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関ヶ原の首塚 

2008/12/27 Sat 22:19:58
 「兵(つわもの)どもが夢の跡」関ヶ原古戦場には、JR関ヶ原駅付近で線路をはさんで東首塚と西首塚があります。
東首塚松平忠吉井伊直政陣跡でもあるのですが東軍諸将の軍旗が立てられおり、西首塚には西軍諸将の軍旗が翻っています。

当然、東首塚は東軍のものであり、西首塚は西軍のものとばかり思っていました。
江戸時代、付近の民衆も西首塚を西軍のものと思い、西首塚を弔うのを遠慮して小さな祠を建てて、あたかも祠を守る態で弔い続けたという話があります。

ところが現在の東首塚には次のような解説看板が掲げられています。

「関ヶ原の戦い直後にこの地の領主竹中家が築いたもので家康によって実験された将士の首が、ここに眠っています。」

ということは東首塚は逆に西軍のものということに・・・

昭和15年には、徳川家が建てた名古屋市東区布池町護国院の大日堂と門が移築され、現在は東西両軍の供養堂とされています。

戦国時代には、戦場では首実検後に敵味方を問わず戦死者を弔い供養塚を築くのが習わしでした。
西首塚には両軍の多くの名もなき兵が葬られているのでしょう。

 【関ヶ原の東首塚】

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カテゴリ: 合戦

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大谷吉継 

2008/12/27 Sat 22:12:25
今回は、石田三成との友情に殉じた武将として人気のある大谷吉継についてご紹介します。

吉継は、大友宗麟の家臣・大谷盛治の子という説がありますが定かではないようです。幼名は紀之助。

秀吉子飼いの武将として天正11(1583)年賤ケ岳の戦で七本槍に次ぐ働きをしますが、主に検地奉行や兵站奉行として用いられて、秀吉をして「百万の軍の軍配をあずけてみたい」とその智謀、人柄を愛されたと言います。

天正13(1585)年、従五位下刑部少輔に叙任され、同17年越前敦賀五万石の城主となりました。
文禄元(1592)年朝鮮出兵では石田三成増田長盛とともに船奉行、現地督戦奉行などを勤めました。
吉継が石田三成と少年の頃よりの固い友情で結ばれていたことは周知のことですが、一方では親家康の立場を明確にしており、秀吉の死後、家康が四大老・五奉行と対立した際も家康側に与しています。

家康の上杉征伐の際に三成と家康の仲を調停しようと征伐軍に合流する途中、美濃の垂井で佐和山の三成に使者を送り、三成の子(重家)を上杉征伐に従軍させようとしますが、逆に三成から佐和山に来るよう求められて家康追討の計画を明かされます。

吉継は三成に対し言を尽くして、その無謀を説き、自分が病身(癩病がかなり進行していた)を押し、家康に従軍するのは重家の後見をするためであるとまで言って説得しましたが、物別れに終り、一旦は垂井に戻りました。
垂井に戻った後も3日間、使者を遣わして、三成に説得を繰り返しましたが、三成の決意が変わらなかったために意を決して三成と運命を共にする覚悟を固めました。

吉継は、一時、他の将と共に小松で前田利長を牽制していましたが、9月3日に関ヶ原に到着して、小早川秀秋が陣取っていた松尾山の北の藤川台に陣しました。
開戦後、藤堂高虎京極高知寺沢広高隊と激戦を繰り広げ、小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷隊に殺到した後も、そのことを予想していた吉継は備えており、一時は逆に小早川隊を押し戻したほどであったと言われています。

しかし、小早川隊の裏切りに備えたはずの脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保の四隊までもが寝返り、大谷隊は三方を敵に囲まれる形となり、ついに総崩れとなりました。
吉継は死に臨み「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と遺言し、家臣に首を打たせて、首を敵に渡さぬよう土中に埋めさせたと言われています。

秀秋は、二年後、狂乱の末に死亡、脇坂ら四将も家康から非常に冷たく扱われたのは吉継の思いがさせたことだったのでしょうか。

カテゴリ: 人物

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明智光秀 

2008/12/14 Sun 23:16:09
明智光秀と聞いて、どのようなイメージを持つでしょうか?
今回は光秀についてご紹介します。


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1 光秀の人物像

明智光秀といえば「主殺し」「三日天下」など、ありがたくない代名詞がつくのが一般的のような気がします。
しかしながら、歴史を大きく転回させたキーマンであることは事実です。
同時に光秀ほど謎に満ち、歴史的興味をかりたててくれる人物も、そう多くはいないのではないでしょうか。

また、戦国期の武将の中で光秀が特異な存在で一人浮いて見えてしまうのはどうしてでしょうか。
私の感覚ですが、信長・秀吉・家康に代表される戦国武将は歴史上の勝者敗者を問わず、現実世界からかけ離れた人物に感じてしまうのですが、光秀については、何故かその栄光も苦悩も挫折も現代に通じるドキュメンタリとしてとらえることができるような気がします。

それは、早乙女貢氏が指摘するように光秀が「勤勉で、学問好きで、まじめに生きようとしている。むろん武士として名誉欲も、政治的野心もあるが、歌人であり、ものの哀れを知る男だ。」(明智光秀 物語と史蹟をたずねて 早乙女貢著より抜粋)という現代人的感覚に近い人間だからだと思います。

逆に言えば戦国期においては、生きていけない人間ということになってしまうかもしれませんが、明智一族の結束の強さに光秀の人間臭さを感じます。

光秀の才能や人間性が、どのようにしてできたのか興味がありますが、残念ながら光秀が歴史の表舞台に登場してくるのは朝倉義景に仕官した時からでその前半生を語る信憑性のある資料はほとんどなく謎に包まれており今後の研究を待たなければなりません。


2 光秀の略歴

出自  清和源氏で土岐下野守頼兼の末裔
父  明智光綱(光綱の弟、兵庫助光安が美濃明智城城主)
※ 斉藤道三の妻 小見の方は光綱の妹でその子が織田信長の妻 濃姫
兄弟  信教康秀の2人の弟がいる
妻  妻木勘解由左衛門範熙の女
子  男子・・・十五郎、子(名不明)、女子・・・明智秀満の妻、織田信澄の妻、細川忠興の妻
生没年  享禄元(1528)年~天正10(1582)年
明智姓  美濃国明智荘(岐阜県可児市)に由来
墓所  西教寺、高野山奥ノ院
※ 出自、家族関係、生年、明智姓の由来には諸説あり


永禄末~元亀元年  足利義昭の家臣という身分のまま、信長にも仕える
元亀2(1571)年  近江志賀郡の地を与えられ坂本城を居城とする
天正3(1575)年  丹波攻略の命が下る、越前一向一揆討伐、竹田城攻め、黒井城包囲
天正4(1576)年  八上城主、波多野秀治の裏切りにより丹波から一時撤兵、石山本願寺攻め
天正5(1577)年  雑賀攻め、松永久秀攻め、亀山城・籾井城攻め
天正6(1578)年  八上城攻め、本願寺攻め、園部城攻め、神吉城攻め、荒木村重攻め、三田城攻め
天正7(1579)年  氷上城攻め、八上城攻め、丹後攻め、黒井城攻め 
天正8(1580)年  信長より「粉骨のたびたびの功名、比類なき」の感状とともに丹波一国を与えられ亀山城主となる
天正10(1582)年  家康饗応役を免じられ、中国地方出陣を命じられる
5月26日 坂本城から亀山城に入る
5月27日 愛宕山参詣、籤を2、3度引く
5月28日 愛宕威徳院で百韻連歌に参加
6月 1日 一万三千の兵を率い亀山城を出発
6月 2日 未明、本能寺を奇襲し信長を討つ、二条御所で信忠を討つ、近江に向け進軍するも山岡景隆が抵抗し瀬田唐橋を落としたため、坂本城に引き返す
6月 3日 瀬田唐橋修復を待つ
6月 4日 3日に同じ
6月 5日 安土城入城、佐和山城・長浜城を攻め両城占拠
6月 7日 勅使 吉田兼和と安土城で会見し、誠仁親王からの進物受領
6月 8日 坂本城帰城
6月 9日 京に入り、支配体制を整える、細川父子に書状送るも黙殺される、下鳥羽に出陣、南殿寺に本陣を置く、筒井順慶を洞ケ峠で待つが順慶、現れず
6月10日 筒井順慶に再度、出陣要請するも実らず。夜、秀吉の動向を知る
6月11日 再び下鳥羽に本陣を構え、淀城・勝龍寺城の防備を固める
6月12日 山崎で秀吉軍と交戦
6月13日 光秀軍一万六千、秀吉軍三万七千が戦闘。光秀敗れ勝龍寺に撤退。深夜に近江方面に逃走する。伏見の小栗栖で落ち武者狩りに遭い絶命
               

3 光秀を本能寺に駆り立てたもの

なぜ、光秀は信長を討ったのでしょうか?

戦国史上最大の謎といわれ、諸説ありますが後世の私たちが光秀の内心を正確に、のぞき見ることは出来ないような気がします。
ただ言える事は、光秀と信長は互いに肌が合わない人間性を持っていたこと、動機についても一つではなく、いろんな要因が積もり積もって光秀をして信長を討たせたのだろうということです。

以下に光秀が本能寺で信長を討った理由についての代表的な説を簡単に紹介します。
ただし、私なりの解釈が介在していることをお断りしておきます。


イ 野望説
光秀も、信長ら他の戦国武将となんら異なることはなく、チャンスがあれば天下を手中にしたいと考えていたのではないか。
しかも、光秀は年齢を重ねても青雲の志を忘れないタイプの人間に思えます。その志と信長の間で常日頃から葛藤していて、そこに千載一遇のチャンスが訪れたとかんがえたのではないか。
 説得力は十分ありますが、直接の動機としては弱い感じがします。

ロ 怨恨説
信長に光秀の立場を考慮しない言動がたびたびあったため、溜まりに溜まった恨みが動機となったとする説です。
例えば甲州攻めの際の折檻、八上城攻めの際に人質となった光秀の母を見殺しにされたこと、家康饗応役に対する叱責などが具体的原因として数えられます。
通説に近い説ですが、光秀のスケールを小さく見せる作為を多少感じます。

ハ 自己防衛説
信長は晩年になればなるほど、冷酷、残忍、ヒステリックな性格が顕著になっており、それが敵はおろか、家臣にも向けられた傾向があります。
織田家股肱の臣である林佐渡守や佐久間信盛のように、いつ、難癖をつけられ追放されるかわからない。そんな不安定な地位に甘んじるくらいなら大きな賭けに出るほうが良いと光秀が考えたとする説です。
有力な説です。

ニ 武士の面目説
長宗我部氏との折衝役を行っていた光秀は、当然、自分が四国攻めの総大将に指名されると思っていましたが、信長は長宗我部氏との約束事を反故にしたあげく、所領の丹波と近江を没収し、かわりに毛利領である出雲と石見を与えるという。更にライバルである秀吉の指揮下で中国攻めに参加せよとの命令が下されました。
今までの自分の苦労が無になる思いと何にもまして自分を支えてきてくれた一族や家臣に面目が立たない。面目を守るためには何を為すべきか・・・。
時期的にもタイムリーであり直接の動機としては十分説得力がある説です。

カテゴリ: 人物

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豊臣秀長 

2008/12/14 Sun 22:15:08
豊臣秀吉の弟・豊臣秀長は、非常に魅力ある武将の一人ですので、ご紹介したいと思います。

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1 秀長の略歴

天文8年(1539)生~天正19年(1591)1月22日没
秀吉の異父弟とする説と実弟とする説があります。
通称 小一郎。

20歳の時、秀吉の誘いに応じ尾張中村での農民生活を捨て、秀吉に仕えます。
秀長は、秀吉がまだ足軽組頭であった時から秀吉の参謀として、代理として、また弟として影で秀吉を支え続けます。
墨俣の一夜城築城美濃攻め但馬平定山崎の合戦中国攻め長宗我部討伐島津討伐等数々、秀吉の出世の足がかりとなった戦には常に秀長が従っていました。

後年、大和郡山城を与えられ、従二位権大納言に叙せられてからは大和大納言と称され、その温和な人柄から多くの武将に慕われたと言います。


2 秀長について

秀長は天正19年(1591)に病死しました。秀吉に先立つこと7年あまり。
秀長がもう少し長生きしていれば・・・と考えた時、その後の歴史は大きく変わった可能性があります。

内々の儀は宗易、公儀のことは宰相(秀長のこと)」と言われたように、秀長の豊臣政権下における位置は非常に重いものがありました。
秀吉にしても公私を問わず、自分の分身として頼れるのは秀長であったはずです。

秀吉の弟でもあり、武将としての力量も抜群で、しかも、そのおだやかな性格から豊臣政権のまとめ役でした。また、常に秀吉を立て決して弟の分を超えることはないが、秀吉に対して遠慮なく諫言できるのは秀長だけであったとも言われています。

秀長が死の床についた時、見舞いに来た前野長康
わたしも病気を得て、すっかり気が弱くなってしまった。志も達することもできずに病気となり、兄者に諫言することもままならず空しく伏せっている。我が命のある限り兄者、天下のことに尽くしたく毎夜、夢にうなされている。ご憐察ください。」と言ったというが、本人も無念だったと思います。

また、秀長は「いたずらに外国と争い、人馬や兵糧を費やすことはおろかなことである。損失ばかり多く、何も得るものはない。和議を講じて交易を行うことが富国の一番の道である。」として病床にありながら朝鮮と戦を行うことに反対していたと言います。
朝鮮出兵が決定されたのは秀長の死から2ヵ月後のことでした。

秀長の死を知った時、秀吉は片腕を失った、と号泣したといわれています。
秀長を失った秀吉は、人が変わったように利休切腹朝鮮征伐秀次抹殺と暗い面ばかりが目立つようになります。

秀長が生きていれば、少なくとも利休、秀次のことはなく、朝鮮とのことも違った形になったのではないか。そうなれば、加藤清正らと小西行長石田三成の対立もそれほど表面化しなかったのではないか、そう考えるのは行き過ぎだろうか。
秀吉没後に秀長が健在であれば、徳川家に征夷大将軍が下されることはなかったのではないでしょうか。ちなみに秀長は家康の3歳年長であるに過ぎません。

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細川忠興 

2008/12/13 Sat 23:13:41
今回は、細川ガラシャ夫人の夫としても知られる細川忠興についてご紹介します。

忠興は、長岡(細川)藤孝(幽斎)の長子として生まれました。
織田信長に仕え、父と共に明智光秀軍に属し、松永久秀攻めでは信長から感状を下されています。
また、信長の嫡子・信忠から一字を与えられて忠興と名乗り、信長の取り持ちにより光秀の三女・お玉(洗礼名・ガラシャ)を娶っています。

本能寺の変では、父と共に明智光秀を見限り、秀吉に与しました。
忠興は、この時から家督を譲られ、丹後12万石宮津城主となり、秀吉と家康が戦った小牧長久手の戦いでは、織田信雄を破り、羽柴の姓を許されます。
その後、九州・小田原攻めなどに参戦し、従三位参議、越中守に任じらます。

秀吉の死後、家康に与して上杉攻めでは福島正則加藤嘉明とともに先鋒として出陣して、関ヶ原本戦でも石田三成と激闘を演じました。更に父・幽斎が篭城する田辺城に取って返し、父を救っています。
この活躍により豊前、豊後二郡の39万9千石を与えられ、家督を忠利に譲った後、寛永9(1632)年加藤忠広改易に伴い、肥後熊本54万石に移封となりました。

忠興は天寿を全うし、正保2(1645)年、83歳の長寿を得て没しました。
父譲りの政治嗅覚に優れ、隠居後も情報の収集・分析をよく行い、幕府の外様取潰し政策の中、付け入る隙を与えなかったと言います。
また、若年から激しい気性を持ち合わせ、戦場で活躍した反面、有職故実、和歌、絵画、能など多方面にも優れた才能があって、特に茶道は利休七哲の一人として三斎流を興しており、当代きっての文化人でもありました。

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藤堂高虎 

2008/12/13 Sat 22:13:03
藤堂高虎について、ご紹介します。

藤堂氏は代々、近江国犬上郡数村を領し、高虎は父・虎高とともに浅井氏に仕えて、元亀元(1570)年姉川の戦いで初陣を飾ったと言われていますが、8、9歳の頃より大人顔負けの体格で「勇力豪強志気壮武」と評されるほどでした。幼名は与吉

浅井氏滅亡後は、阿閉(あつじ)氏磯野氏織田信澄と主君を変えて、天正4(1576)年羽柴秀長に仕えることとなります。
中国攻め賤ケ岳の戦い四国攻め九州攻めなど戦の度にめざましい軍功をあげて、紀州紛河2万石の城主となりました。

秀長、秀保(秀長養子)が相次いで没して、大和郡山豊臣家が断絶すると、一時は主君の菩提を弔うため高野山に入ってしまいますが、秀吉に呼び戻され、伊予板島(のち宇和島と改名)城主八万余石に抜擢されました。

復帰後、文禄の役に出陣、続いて慶長二年に起きた再度の朝鮮の役にも出陣して、加藤嘉明とともに水軍を率いて戦い、巨済島に朝鮮水軍を破りました。
しかし、失脚していた李舜臣が登場するや苦戦を強いられ高虎自身も負傷している。

秀吉没後、他の武将が動揺する中、高虎はいち早く、次の天下人が家康であることを確信し、家康のために心憎いまでの働きを見せます。

例えば、
四大老五奉行が私婚の禁を破った家康を問責した際も、いち早く家康に通報
②家康暗殺計画がささやかれる中、家康が前田利家邸を訪ねた際、密かに家康の身辺を警護し、訪問を終えた夜は自邸を家康に提供し徹夜で警護
前田利家が死亡の報をいち早く、家康に注進
上杉征伐従軍に際して、いち早く弟・正高を江戸に人質に出す
⑤関ヶ原本戦に際し、脇坂・朽木・小川・赤座の寝返り工作を行い東軍勝利の決定的要因に寄与

これらは代表例ですが、高虎は家康が何を考え望んでいるかを的確に読み、外様という立場にありながらも、あたかも家康の家臣のごとく働き、家康の絶大な信任を勝ち取ります。
関ヶ原後、伊予今治20万石を与えられ、慶長13(1608)年には伊賀・伊勢津22万石に移封、更に大坂の陣の功も加わり元和3(1617)年には、32万4千石を得るに至ります。

高虎は、築城家としても優れ、伏見城丹波亀山城上野城津城二条城などを手がけています。
高虎は戦国乱世を七度主人を変えながら、大成功を収め寛永7(1630)年に没しています。

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石田三成 

2008/12/07 Sun 22:09:18
今回は、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」の一方の主役であった石田三成についてご紹介したいと思います。

石田三成


1 三成の人物像

石田三成は、一般的に侫臣、傲慢、小賢いという人物像で語られることが多いのですが、歴史というには勝者によって残された記録であることを考えてみる必要があります。
それというのも、そのような三成のイメージは主に江戸時代に作られたものだからです。

ただ、近年は、司馬遼太郎氏、小和田哲男氏、堺屋太一氏等によってマイナスイメージが徐々に変わりつつあります。
もちろん、歴史上の人物を善玉悪玉というレッテルをつけて見ることは誤りであり、実は石田三成が善玉であったということを説明したいわけではありません。

三成の人物を矮小化させるためには、千利休切腹、豊臣秀次抹殺等の豊臣政権下の暗い部分の責任を三成一人にお仕着せるということがあります。
これら全ては秀吉の意思であり、三成は、その手足に過ぎません。

また、「関ヶ原は家康の周到な仕掛けにはまり、三成は負けるべくして負けたのだ。」という見かたもあるようです。

関ヶ原の戦いは、一日で戦闘が終わったため、東軍の楽勝だったというイメージがあります。
しかし、家康にしても上杉征伐から関ヶ原に至るまで、また、関ヶ原で戦闘が始まってからも薄氷を踏む思いであったのは間違いありません。
一つの歯車が違っていたら西軍が勝つことも十分ありえたでしょう。

後世、結果を知っている私たちが三成の敗戦理由を並び立てるのは難しい訳ではありません。
例えば、島津豊久の夜襲策を斥けたことにより勝機を逃したという説もありますが、この献策自体が存在したかも疑わしいと言われています。
仮に事実であったにしても、当事者たる三成には、それなりの事情と判断があったと思われますが、私たちには、正確にそれらを把握することは不可能です。
もし、東軍が敗れていれば私たちは同じように家康の敗戦理由をあれこれと並べ立てたに違いないのです。

ともかく、三成はわずか19万4千石で毛利や島津を動かし、天下を二分して、家康と五分に渡り合いました。その力量は大いに評価されるべきだと思います。

豊臣秀長は秀吉に対し、「軍中功を求め、限りなく高禄を欲する者共がそれほど高禄を望むなら、吾が禄を与えよ。」と諫言したとされるが、三成は高禄を望まず、秀吉生存中も没後もひたすら秀吉の恩顧に答えようと、自己の能力をフル回転して戦国の世を駆け抜けたのです。


2 三成の略歴


永禄3年(1560)  近江国坂田郡石田村(現長浜市石田町)で佐吾右衛門(後の石田正継)の二男として生まれる。
天正2年(1574)  近江で秀吉に見出され家臣となる。
天正5年(1577)  秀吉の中国攻めに従軍(天正10年まで)
天正11年(1583)  水口4万石城主となる。島左近を1万5千石で召抱える。賤ケ岳の戦いの兵站で非凡の才能を発揮する。
天正12年(1584)  太閤検地の奉行を務める。
天正13年(1585)  従五位下治部少輔に任じられる。
天正15年(1587)  朝鮮攻めの兵站基地として博多の町割り奉行を務める。
天正18年(1590)  近江佐和山19万4千石の城主となる。武蔵忍城攻めの総大将として出陣するが、失敗する。
文禄元年(1592)  朝鮮征伐軍の総奉行として渡海。
慶長3年(1598)  秀吉死去。
慶長4年(1599)  徳川家康を問責。前田利家死去。加藤清正ら七将に襲撃される。奉行を辞職し、佐和山に謹慎する。
慶長5年(1600)  家康討伐のため出陣(関ヶ原の戦い)。七条河原で斬首される。(没年41歳)。


 三成の体格 

明治40年、京都大徳寺三玄院の三成の墓から骨が発掘されました。
発掘資料から後年、三成の復顔や体格の分析が行われ、「女性のような骨格、頭形は長頭、鼻は高く鼻筋が通っており、かなりの反っ歯、身長156cm前後」と報告されています。

加藤清正が三成を「背の小さきはんさん者(おべっか使い)」と言ったと言いますが、当時としては特別背が小さい方ではない、ということになります。
ちなみに、家康の身長は155~158cmと推定されています。

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浅野幸長 

2008/12/06 Sat 23:30:27
今回は浅野幸長についてご紹介します。

幸長は、豊臣恩顧の武断派で、徳川幕政下では広島浅野本家の礎を築いた人物です。
浅野長政の長子として生まれ、15歳で秀吉の小田原攻めに従軍し、武蔵岩槻城攻略で抜群の働きを見せ秀吉に賞されています。

1595(文禄4)年、姻戚関係から豊臣秀次失脚に連座して、能登津向に配流されますが前田利家のとりなしにより翌年赦免されました。
1592(文禄元)年の朝鮮出兵では加藤清正とともに蔚山で壮絶な篭城戦を演じました。
帰国後は他の武断派と同じく三成に反感を持ち、家康の会津征伐に従軍し、三成挙兵後は岐阜城攻撃に参加しました。

関ヶ原本戦では、南宮山方面に布陣し、長束正家隊と小競合い演じた程度でしたが、戦後、紀伊和歌山37万7千石を与えらています。
関ヶ原後、徳川政権にとっては、豊臣恩顧の武将として加藤清正、福島正則らと共に最も警戒された武将の一人でした。二条城で秀頼と家康が対面した時には、秀頼方として付き添いましたが大坂の陣を迎える一年前に死去しました。

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本多政重・・・七度主君を変える 

2008/12/06 Sat 22:10:28
「武士たるもの七度、主君を変えねば武士とは言えぬ」
これは、築城の名手と言われ、外様でありながら家康に重く用いられた藤堂高虎の言葉と言われています。

江戸時代の武士は「二君に仕えず」と言われ、主君がどんな人物であっても家臣たるもの忠を尽くすことが求められたのと対照的です。
これは、戦国時代が変化の時代で力のない主君の下では生きていけないという事情があったのに対して、江戸時代が変化を嫌った時代であることから武士の倫理観も違っていたのです。

藤堂高虎は有名な武将ですが、同じように主君を次から次へと変えていった武将として本多政重をご存知でしょうか。


藤堂高虎の遍歴は
浅井長政 → 阿閉貞征 → 磯野員昌 → 織田信澄 → 羽柴秀長(・秀保) → 豊臣秀吉 → 徳川家康
高虎は多くの挫折をしながらも織田、豊臣、徳川と見事に転身しています。

本多政重は
徳川家康 → 大谷吉継 → 宇喜多秀家 → 福島正則 → 前田利長 → 上杉景勝 → 前田利長


こちらも見事に七度、主君を変えています。
このことだけでも、どんな人物であったのだろうと興味をひきますが、この本多政重、実は家康と一心同体と言われた本多正信の次男なのです。

徳川秀忠の乳母の子を斬って徳川家を出奔、関ヶ原では西軍の主力・宇喜多隊の一翼を率いて奮戦しているのです。確かな人物像は不明ですが、一説には父や兄(正純)とは違い、武勇に秀でた武将であったと言われています。

前田家に落ち着いてからは、家老として幕府からの前田潰し政略の矢面にたって前田家を守るのに大きな功績があったと言われています。

この本多政重を題材とした小説として、安部龍太郎氏の「生きて候(上下巻)」があります。
小説ですから、細かい設定は著者の創作ですが、政重に興味を覚えた方は一読してみてはいかがでしょうか。

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今川義元 

2008/12/06 Sat 11:57:57
本館「武士の時代」の「天下人は誰だ!」で長らく今川義元が一位だった時期があります。
桶狭間の戦い織田信長に討たれた武将として有名ですが、どんな武将であったかは意外に知られていないようです。

そこで今回は、今川義元について少しだけ紹介させていただきます。
今川氏は、足利義兼の孫・吉良長氏の二男国氏が三河の今川庄に根を降ろし、今川と名乗ったとされており、室町時代には足利将軍家の血筋を引く名家として駿河・遠江の守護職を兼ねていました。

足利義兼・・・源頼朝と同時代人で頼朝の一門
駿河   ・・・静岡県中部・東部
遠江   ・・・静岡県の西部

織田信長に虚をつかれて討たれたという事実のみをもって、義元を評価するのは余りにも矮小化している見方だと思っています。

義元は家督を武力で奪取するや北条氏、松平氏、織田氏、菅沼氏などと抗争を繰り広げながらも大規模な検地や役の整備、訴訟制度の確立、伝馬制などの交通機関の整備、殖産興業の奨励、商工業の統制・保護などこの時代としては画期的な内政を行っっていました。

武田信玄徳川家康は義元から内政の多くを学んだのではないかと思われます。
また、内政のみならず、今川・武田・北条の三国同盟を成立させるなど戦略眼も優れた物がありました。
戦国時代の同盟というのは名ばかりが普通でしたが、この三国同盟は実効性のある同盟として有名です。

その上に歌道にも優れた文化人でもありました。信玄や家康も「海道一の弓取り」といわれますが、義元も信玄らに負けない文武両道の戦国時代を代表する武将であったのです。

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宇喜多秀家 

2008/12/06 Sat 11:10:37
秀吉の秘蔵っ子といわれた宇喜多秀家についてご紹介します。

宇喜多秀家は、豊臣恩顧の武将で、五大老の一人でした。
中国の謀略家、宇喜多直家の子で10歳で家督を継ぎ、秀吉の中国攻めに参加して、備中の一部、備前、美作合わせて57万石を得ました。

四国、九州攻め朝鮮出兵でもめざましい活躍をし、秀吉も我が子同然に扱い、養女(前田利家娘、豪姫)を娶わせたほか、1594(文禄3)年に権中納言に昇進、1598(慶長3)年には20代で五大老に昇進させました。
秀吉の異例の引きと言えるでしょう。

秀吉の死後、国元と上方家臣の間でいさかいが起こり、家中が大いに乱れます。
一説には家康の扇動とも言われ、秀家は家康に対し大きな憤懣を持っていたとも言われています。

関ヶ原では、西軍の副将格となり、伏見城攻撃に参加、本戦では福島正則隊と激戦を繰り広げました。

西軍の敗色が決定的になった時に、自分と同じく秀吉から、わが子同然の恩を受けながら、裏切った小早川秀秋に対して大きな怒りを持って、秀秋と刺し違える覚悟を決めたとも言われていますが、家臣・明石全登が自分の怒りより、再起を図るべきとの諌言を入れ、伊吹山方面に逃走しました。

その後、薩摩に匿われ、1603(慶長8)年島津忠恒前田利長の懇願により、罪が軽減され八丈島に流罪となりました。
秀家は、嫡子、次男ら13名とともに八丈島大賀郷で島民と融合し、50年の歳月を送りました。
1655(明暦元)年、84歳で世を去った時は既に四代将軍家綱の治世でした。

秀吉恩顧の武将が家康になびく中、秀吉の恩を忘れることなく、当然のように豊家第一に行動した秀家は戦国の世を渡るにしては、余りに素直すぎる生き方であったのかもしれません。

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