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関ヶ原の戦いの開戦理由 

2008/12/28 Sun 23:21:06
関ヶ原の戦いの開戦理由についてのお話です。

一言で言ってしまうと天下人だった豊臣秀吉が亡くなった後の主導権争いであるといえます。
秀吉も織田信長が亡くなった後、明智光秀柴田勝家との主導権争いに勝って、天下人の地位を築きました。当時、256万石の所領を持ち最大の実力者であった徳川家康が次は自分が天下を取る番だと考えたのも無理がないのです。

このように、家康が独断専行することが予想されたため、生前、秀吉は、いわゆる一般に五大老五奉行といわれる集団指導体制を敷いたのですが、不幸なことに家康に唯一対抗できる前田利家が秀吉の死後、半年余りで亡くなってしまいました。

秀吉が亡くなった当時の五大老の状況を見てみましょう。
徳川家康(55歳) 内大臣 256万石
前田利家(60歳) 大納言 83万石
宇喜多秀家(25歳)権中納言 57万石
毛利輝元(45歳) 権中納言 120万石
上杉景勝(42歳) 参議 120万石

 * 官職は既に辞している場合も含む、年齢には異説あり


家康が秀吉の定めた法度を破って、伊達政宗蜂須賀家政などと無断で婚姻政策を進めた時に利家が烈火のごとく怒り、他の3大老も利家に同調しました。
利家亡き後も3大老の石高合計は家康のそれを凌駕しており、更に前田利長が加わったとしたら家康を圧倒することができそうです。

ところが、事情は単純ではありません。家康以外の3大老は朝鮮の陣により国力が疲弊しているうえに、それぞれが深刻な事情を抱えていました。

秀家は重臣同士の争いや宗教問題などで多くの重臣、一門衆が秀家の下を去っており家中がばらばら、輝元もまた毛利の柱石・小早川隆景を2年前に失って家中を一本にすることができていない状態、景勝に至っては会津に国替えとなって1年と経っておらず、足元固めも未了の状態でした。

もはや家康の独断専行を表立って抑える者がいなくなったのです。当然、そんな家康に反感を持つ者も多くいたのですが、それをなんとか、まとめて家康に戦いを挑んだのが秀吉の信任厚く、才智抜群であった石田三成(38歳) 侍従 19万石 なのです。
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