10« 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30.»12

武士の時代検索エンジン

スポンサードリンク

カテゴリ

管理人

リンク

最近の記事+コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

メールフォーム

RSSリンクの表示

 « MENU » * Upload * New entry * A d m i n * All archives

武士の時代戦国ブログ

スポンサーサイト 

--/--/-- -- --:--:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

カテゴリ: スポンサー広告

page top▲

writes     CLOSE▲  

石田三成 

2008/12/07 Sun 22:09:18
今回は、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」の一方の主役であった石田三成についてご紹介したいと思います。

石田三成


1 三成の人物像

石田三成は、一般的に侫臣、傲慢、小賢いという人物像で語られることが多いのですが、歴史というには勝者によって残された記録であることを考えてみる必要があります。
それというのも、そのような三成のイメージは主に江戸時代に作られたものだからです。

ただ、近年は、司馬遼太郎氏、小和田哲男氏、堺屋太一氏等によってマイナスイメージが徐々に変わりつつあります。
もちろん、歴史上の人物を善玉悪玉というレッテルをつけて見ることは誤りであり、実は石田三成が善玉であったということを説明したいわけではありません。

三成の人物を矮小化させるためには、千利休切腹、豊臣秀次抹殺等の豊臣政権下の暗い部分の責任を三成一人にお仕着せるということがあります。
これら全ては秀吉の意思であり、三成は、その手足に過ぎません。

また、「関ヶ原は家康の周到な仕掛けにはまり、三成は負けるべくして負けたのだ。」という見かたもあるようです。

関ヶ原の戦いは、一日で戦闘が終わったため、東軍の楽勝だったというイメージがあります。
しかし、家康にしても上杉征伐から関ヶ原に至るまで、また、関ヶ原で戦闘が始まってからも薄氷を踏む思いであったのは間違いありません。
一つの歯車が違っていたら西軍が勝つことも十分ありえたでしょう。

後世、結果を知っている私たちが三成の敗戦理由を並び立てるのは難しい訳ではありません。
例えば、島津豊久の夜襲策を斥けたことにより勝機を逃したという説もありますが、この献策自体が存在したかも疑わしいと言われています。
仮に事実であったにしても、当事者たる三成には、それなりの事情と判断があったと思われますが、私たちには、正確にそれらを把握することは不可能です。
もし、東軍が敗れていれば私たちは同じように家康の敗戦理由をあれこれと並べ立てたに違いないのです。

ともかく、三成はわずか19万4千石で毛利や島津を動かし、天下を二分して、家康と五分に渡り合いました。その力量は大いに評価されるべきだと思います。

豊臣秀長は秀吉に対し、「軍中功を求め、限りなく高禄を欲する者共がそれほど高禄を望むなら、吾が禄を与えよ。」と諫言したとされるが、三成は高禄を望まず、秀吉生存中も没後もひたすら秀吉の恩顧に答えようと、自己の能力をフル回転して戦国の世を駆け抜けたのです。


2 三成の略歴


永禄3年(1560)  近江国坂田郡石田村(現長浜市石田町)で佐吾右衛門(後の石田正継)の二男として生まれる。
天正2年(1574)  近江で秀吉に見出され家臣となる。
天正5年(1577)  秀吉の中国攻めに従軍(天正10年まで)
天正11年(1583)  水口4万石城主となる。島左近を1万5千石で召抱える。賤ケ岳の戦いの兵站で非凡の才能を発揮する。
天正12年(1584)  太閤検地の奉行を務める。
天正13年(1585)  従五位下治部少輔に任じられる。
天正15年(1587)  朝鮮攻めの兵站基地として博多の町割り奉行を務める。
天正18年(1590)  近江佐和山19万4千石の城主となる。武蔵忍城攻めの総大将として出陣するが、失敗する。
文禄元年(1592)  朝鮮征伐軍の総奉行として渡海。
慶長3年(1598)  秀吉死去。
慶長4年(1599)  徳川家康を問責。前田利家死去。加藤清正ら七将に襲撃される。奉行を辞職し、佐和山に謹慎する。
慶長5年(1600)  家康討伐のため出陣(関ヶ原の戦い)。七条河原で斬首される。(没年41歳)。


 三成の体格 

明治40年、京都大徳寺三玄院の三成の墓から骨が発掘されました。
発掘資料から後年、三成の復顔や体格の分析が行われ、「女性のような骨格、頭形は長頭、鼻は高く鼻筋が通っており、かなりの反っ歯、身長156cm前後」と報告されています。

加藤清正が三成を「背の小さきはんさん者(おべっか使い)」と言ったと言いますが、当時としては特別背が小さい方ではない、ということになります。
ちなみに、家康の身長は155~158cmと推定されています。
スポンサーサイト

カテゴリ: 人物

コメント

この記事へのコメント
コメントを投稿する














管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。