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宇喜多秀家 

2008/12/06 Sat 11:10:37
秀吉の秘蔵っ子といわれた宇喜多秀家についてご紹介します。

宇喜多秀家は、豊臣恩顧の武将で、五大老の一人でした。
中国の謀略家、宇喜多直家の子で10歳で家督を継ぎ、秀吉の中国攻めに参加して、備中の一部、備前、美作合わせて57万石を得ました。

四国、九州攻め朝鮮出兵でもめざましい活躍をし、秀吉も我が子同然に扱い、養女(前田利家娘、豪姫)を娶わせたほか、1594(文禄3)年に権中納言に昇進、1598(慶長3)年には20代で五大老に昇進させました。
秀吉の異例の引きと言えるでしょう。

秀吉の死後、国元と上方家臣の間でいさかいが起こり、家中が大いに乱れます。
一説には家康の扇動とも言われ、秀家は家康に対し大きな憤懣を持っていたとも言われています。

関ヶ原では、西軍の副将格となり、伏見城攻撃に参加、本戦では福島正則隊と激戦を繰り広げました。

西軍の敗色が決定的になった時に、自分と同じく秀吉から、わが子同然の恩を受けながら、裏切った小早川秀秋に対して大きな怒りを持って、秀秋と刺し違える覚悟を決めたとも言われていますが、家臣・明石全登が自分の怒りより、再起を図るべきとの諌言を入れ、伊吹山方面に逃走しました。

その後、薩摩に匿われ、1603(慶長8)年島津忠恒前田利長の懇願により、罪が軽減され八丈島に流罪となりました。
秀家は、嫡子、次男ら13名とともに八丈島大賀郷で島民と融合し、50年の歳月を送りました。
1655(明暦元)年、84歳で世を去った時は既に四代将軍家綱の治世でした。

秀吉恩顧の武将が家康になびく中、秀吉の恩を忘れることなく、当然のように豊家第一に行動した秀家は戦国の世を渡るにしては、余りに素直すぎる生き方であったのかもしれません。
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