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大谷吉継 

2008/12/27 Sat 22:12:25
今回は、石田三成との友情に殉じた武将として人気のある大谷吉継についてご紹介します。

吉継は、大友宗麟の家臣・大谷盛治の子という説がありますが定かではないようです。幼名は紀之助。

秀吉子飼いの武将として天正11(1583)年賤ケ岳の戦で七本槍に次ぐ働きをしますが、主に検地奉行や兵站奉行として用いられて、秀吉をして「百万の軍の軍配をあずけてみたい」とその智謀、人柄を愛されたと言います。

天正13(1585)年、従五位下刑部少輔に叙任され、同17年越前敦賀五万石の城主となりました。
文禄元(1592)年朝鮮出兵では石田三成増田長盛とともに船奉行、現地督戦奉行などを勤めました。
吉継が石田三成と少年の頃よりの固い友情で結ばれていたことは周知のことですが、一方では親家康の立場を明確にしており、秀吉の死後、家康が四大老・五奉行と対立した際も家康側に与しています。

家康の上杉征伐の際に三成と家康の仲を調停しようと征伐軍に合流する途中、美濃の垂井で佐和山の三成に使者を送り、三成の子(重家)を上杉征伐に従軍させようとしますが、逆に三成から佐和山に来るよう求められて家康追討の計画を明かされます。

吉継は三成に対し言を尽くして、その無謀を説き、自分が病身(癩病がかなり進行していた)を押し、家康に従軍するのは重家の後見をするためであるとまで言って説得しましたが、物別れに終り、一旦は垂井に戻りました。
垂井に戻った後も3日間、使者を遣わして、三成に説得を繰り返しましたが、三成の決意が変わらなかったために意を決して三成と運命を共にする覚悟を固めました。

吉継は、一時、他の将と共に小松で前田利長を牽制していましたが、9月3日に関ヶ原に到着して、小早川秀秋が陣取っていた松尾山の北の藤川台に陣しました。
開戦後、藤堂高虎京極高知寺沢広高隊と激戦を繰り広げ、小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷隊に殺到した後も、そのことを予想していた吉継は備えており、一時は逆に小早川隊を押し戻したほどであったと言われています。

しかし、小早川隊の裏切りに備えたはずの脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保の四隊までもが寝返り、大谷隊は三方を敵に囲まれる形となり、ついに総崩れとなりました。
吉継は死に臨み「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と遺言し、家臣に首を打たせて、首を敵に渡さぬよう土中に埋めさせたと言われています。

秀秋は、二年後、狂乱の末に死亡、脇坂ら四将も家康から非常に冷たく扱われたのは吉継の思いがさせたことだったのでしょうか。
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