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藤堂高虎 

2008/12/13 Sat 22:13:03
藤堂高虎について、ご紹介します。

藤堂氏は代々、近江国犬上郡数村を領し、高虎は父・虎高とともに浅井氏に仕えて、元亀元(1570)年姉川の戦いで初陣を飾ったと言われていますが、8、9歳の頃より大人顔負けの体格で「勇力豪強志気壮武」と評されるほどでした。幼名は与吉

浅井氏滅亡後は、阿閉(あつじ)氏磯野氏織田信澄と主君を変えて、天正4(1576)年羽柴秀長に仕えることとなります。
中国攻め賤ケ岳の戦い四国攻め九州攻めなど戦の度にめざましい軍功をあげて、紀州紛河2万石の城主となりました。

秀長、秀保(秀長養子)が相次いで没して、大和郡山豊臣家が断絶すると、一時は主君の菩提を弔うため高野山に入ってしまいますが、秀吉に呼び戻され、伊予板島(のち宇和島と改名)城主八万余石に抜擢されました。

復帰後、文禄の役に出陣、続いて慶長二年に起きた再度の朝鮮の役にも出陣して、加藤嘉明とともに水軍を率いて戦い、巨済島に朝鮮水軍を破りました。
しかし、失脚していた李舜臣が登場するや苦戦を強いられ高虎自身も負傷している。

秀吉没後、他の武将が動揺する中、高虎はいち早く、次の天下人が家康であることを確信し、家康のために心憎いまでの働きを見せます。

例えば、
四大老五奉行が私婚の禁を破った家康を問責した際も、いち早く家康に通報
②家康暗殺計画がささやかれる中、家康が前田利家邸を訪ねた際、密かに家康の身辺を警護し、訪問を終えた夜は自邸を家康に提供し徹夜で警護
前田利家が死亡の報をいち早く、家康に注進
上杉征伐従軍に際して、いち早く弟・正高を江戸に人質に出す
⑤関ヶ原本戦に際し、脇坂・朽木・小川・赤座の寝返り工作を行い東軍勝利の決定的要因に寄与

これらは代表例ですが、高虎は家康が何を考え望んでいるかを的確に読み、外様という立場にありながらも、あたかも家康の家臣のごとく働き、家康の絶大な信任を勝ち取ります。
関ヶ原後、伊予今治20万石を与えられ、慶長13(1608)年には伊賀・伊勢津22万石に移封、更に大坂の陣の功も加わり元和3(1617)年には、32万4千石を得るに至ります。

高虎は、築城家としても優れ、伏見城丹波亀山城上野城津城二条城などを手がけています。
高虎は戦国乱世を七度主人を変えながら、大成功を収め寛永7(1630)年に没しています。
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