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細川忠興 

2008/12/13 Sat 23:13:41
今回は、細川ガラシャ夫人の夫としても知られる細川忠興についてご紹介します。

忠興は、長岡(細川)藤孝(幽斎)の長子として生まれました。
織田信長に仕え、父と共に明智光秀軍に属し、松永久秀攻めでは信長から感状を下されています。
また、信長の嫡子・信忠から一字を与えられて忠興と名乗り、信長の取り持ちにより光秀の三女・お玉(洗礼名・ガラシャ)を娶っています。

本能寺の変では、父と共に明智光秀を見限り、秀吉に与しました。
忠興は、この時から家督を譲られ、丹後12万石宮津城主となり、秀吉と家康が戦った小牧長久手の戦いでは、織田信雄を破り、羽柴の姓を許されます。
その後、九州・小田原攻めなどに参戦し、従三位参議、越中守に任じらます。

秀吉の死後、家康に与して上杉攻めでは福島正則加藤嘉明とともに先鋒として出陣して、関ヶ原本戦でも石田三成と激闘を演じました。更に父・幽斎が篭城する田辺城に取って返し、父を救っています。
この活躍により豊前、豊後二郡の39万9千石を与えられ、家督を忠利に譲った後、寛永9(1632)年加藤忠広改易に伴い、肥後熊本54万石に移封となりました。

忠興は天寿を全うし、正保2(1645)年、83歳の長寿を得て没しました。
父譲りの政治嗅覚に優れ、隠居後も情報の収集・分析をよく行い、幕府の外様取潰し政策の中、付け入る隙を与えなかったと言います。
また、若年から激しい気性を持ち合わせ、戦場で活躍した反面、有職故実、和歌、絵画、能など多方面にも優れた才能があって、特に茶道は利休七哲の一人として三斎流を興しており、当代きっての文化人でもありました。
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