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豊臣秀長 

2008/12/14 Sun 22:15:08
豊臣秀吉の弟・豊臣秀長は、非常に魅力ある武将の一人ですので、ご紹介したいと思います。

hidenaga



1 秀長の略歴

天文8年(1539)生~天正19年(1591)1月22日没
秀吉の異父弟とする説と実弟とする説があります。
通称 小一郎。

20歳の時、秀吉の誘いに応じ尾張中村での農民生活を捨て、秀吉に仕えます。
秀長は、秀吉がまだ足軽組頭であった時から秀吉の参謀として、代理として、また弟として影で秀吉を支え続けます。
墨俣の一夜城築城美濃攻め但馬平定山崎の合戦中国攻め長宗我部討伐島津討伐等数々、秀吉の出世の足がかりとなった戦には常に秀長が従っていました。

後年、大和郡山城を与えられ、従二位権大納言に叙せられてからは大和大納言と称され、その温和な人柄から多くの武将に慕われたと言います。


2 秀長について

秀長は天正19年(1591)に病死しました。秀吉に先立つこと7年あまり。
秀長がもう少し長生きしていれば・・・と考えた時、その後の歴史は大きく変わった可能性があります。

内々の儀は宗易、公儀のことは宰相(秀長のこと)」と言われたように、秀長の豊臣政権下における位置は非常に重いものがありました。
秀吉にしても公私を問わず、自分の分身として頼れるのは秀長であったはずです。

秀吉の弟でもあり、武将としての力量も抜群で、しかも、そのおだやかな性格から豊臣政権のまとめ役でした。また、常に秀吉を立て決して弟の分を超えることはないが、秀吉に対して遠慮なく諫言できるのは秀長だけであったとも言われています。

秀長が死の床についた時、見舞いに来た前野長康
わたしも病気を得て、すっかり気が弱くなってしまった。志も達することもできずに病気となり、兄者に諫言することもままならず空しく伏せっている。我が命のある限り兄者、天下のことに尽くしたく毎夜、夢にうなされている。ご憐察ください。」と言ったというが、本人も無念だったと思います。

また、秀長は「いたずらに外国と争い、人馬や兵糧を費やすことはおろかなことである。損失ばかり多く、何も得るものはない。和議を講じて交易を行うことが富国の一番の道である。」として病床にありながら朝鮮と戦を行うことに反対していたと言います。
朝鮮出兵が決定されたのは秀長の死から2ヵ月後のことでした。

秀長の死を知った時、秀吉は片腕を失った、と号泣したといわれています。
秀長を失った秀吉は、人が変わったように利休切腹朝鮮征伐秀次抹殺と暗い面ばかりが目立つようになります。

秀長が生きていれば、少なくとも利休、秀次のことはなく、朝鮮とのことも違った形になったのではないか。そうなれば、加藤清正らと小西行長石田三成の対立もそれほど表面化しなかったのではないか、そう考えるのは行き過ぎだろうか。
秀吉没後に秀長が健在であれば、徳川家に征夷大将軍が下されることはなかったのではないでしょうか。ちなみに秀長は家康の3歳年長であるに過ぎません。
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